にっき Diary

ここは そうぞうせいの おはか▼

差別感情
「私は差別主義者ではない!! 私は合理的で妥当な区別をしているだけだ!!」
この手合いにすっかり疲弊した。

そもそも「区別する」という行為は、背景知識に対して相対的なものである。
たとえば「3」と「5」は、異なる基数であり序数である。しかし「奇数」「素数」という観点からは両者を同一と見なすこともできる。
何かを「これは違う」「これは同じ」と判断するためには、「どうして違いがあると言えるのか」「どうして同じだと言えるのか」という根拠が必要である。

差別というのは、そのような根拠に問題があるような区別のことである。したがって「私は違うと思う」「私は同じだと思う」という議論だけでは差別を論じることはできない。また数字の例から明らかに、持ち込む根拠次第で、違う物が同じになったり、同じ物が違うものになったりする。
ジェンダーの議論が混迷を極めるのは、男性と女性は身体の区別が(比較的)容易であるが、現在の我々の価値観は「身体の区別によって人の扱いを変えてはならない」を原則としているからである。したがって「身体が区別できるのだから、それを根拠に人の扱いを変えてもよい」「身体が区別できても、それを根拠に人の扱いを変えてはならない」という議論が平行線を辿る。
いっそ「身体の区別によって人の扱いを変えてもよい」という価値観を再度採用するという手もあるかもしれない、というのは悪質な冗談である。おそらく今後、身体の属性(性別、皮膚の色素、身体つき、身体能力)で人間を区別することは、「あってはならない」という方向に進むことはあっても、「あってもよい」とは最早ならないであろう。

同様のことが健常者と障害者にも言えて、「障害の有無によって人の扱いを変えてはならない」というのは原則である。ただ社会生活を営む上で、健常者が有利で、障害者が不利である。だから障害者に対して配慮する。これは「人の扱いを変えてはならない」という原則の保持のために行われているんである。障害が原因になって社会的に不利益を被ったのを放置することは「障害の有無によって人の扱いを変えている」ことになるんである。

とか何とか書いている内に疲れてきた。

by primenumber_nak. 日記 <915文字> 編集

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▼最後に投稿または編集した日時:

2022年5月16日(月) 00:24:53

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